2015年12月10日木曜日

Fisherはどう書いていたのか

Statistical Methods for Research Workers の1937年版がネットにおちてたので閲覧。
まあもう著作権も切れてるやね。ありがたし。

長いけど検索がかけられる。
字面は印刷そのものだけど、どうなっているのだろう?

それはともかく。

2群間の平均の比較だけど、計算はともかくtを出せとある。
じつはこのtだけど、古いのか、ちょっといろいろ問題がある。
自由度の考え方が古い。
ようは1引いてない。そのわりに平均からは引いてたりして。
まあたぶん正確ではない。

けどなんていうか、
ちゃんと最初から最後までどうやるのかについて書いてない。
帰無仮説という概念がない。
棄却という概念もない。

ベイズが嫌いなことはわかった。
inverse probabilityも嫌いなことはわかった。

帰無仮説がないんだから対立仮説もない。

Fisherのテストっていうのは誰が考えたのだろう? へんな話だけど。

test of significance ってのはしかし、この本から出てくるんだな。
p値の説明はしてないように思う。

そして、ちゃんと求めることもしてない。
ってか、たぶんできなかった、この時代だと。

ひとつへえ、だったのは、p45で、閾値を2σにするとだいたい5%になるといって、
これをひとつの指標にすると便利だろうとすすめている。
よくある閾値の5%はこれからでている? ってことはつまり
かれは基本的にDOUBLE-SIDEDにみてたということ。

もうひとつ、この値にしたときにはせいぜい間違いは1/20であると言ってること。
この間違いはfalse positiveなので(negative は無視)
閾値かP値かをfalse positive rateだと考えていたということ。

ってか閾値をそれだっていってることになる。ふうん。
Neymanと一緒じゃないのよ。

あとmaximum likelihoodを連発するんだけどlikelihoodを一回も定義してない。
かんべんしてほしい。
このひと概念を数式にするのを嫌がるのかなあ。
それが後々まで論争の火種になっていたんじゃないかなあ。

2015年12月9日水曜日

そもそもp(x)ってなんだっけ

Fisherのやつ。 

p値は
p = pr(T>t|H0)

これをベイズでかんがえると

pr(H0|T>t) = pr(T>t|H0) pr(H0) / pr(T>t)

である まあこれでpr(T>t)がp(X)であるということ。

帰無仮説をH0: θ=0 として考えているんだけど運用はちょっと違ってて、
 
H0: abs(T)<c なんだなじつは。
ランダムバリアブルの絶対値がある範囲内に入るってことを帰無仮説にとっているのだ。


そう考えると、point null のことを避けて通れる。
H0: θ=0 と考えてp(x)がなんなのかというとこんぐらがるんだけど。

2015年12月3日木曜日

Neymanのalternative hypothesis

✩誌名: Synthese 
論文名: Frequentist probability and frequentist statistics.
  著者名: J. Neyman.  
     1977年 Vol.36 No.1 p.97-131

  URL: http://link.springer.com/article/10.1007%2FBF00485695?LI=true

で入手可能だった。

これによるとなんと、35頁もあるなかでalternative hypothesisって単語が
一回しか使われてない。

でやっぱり、帰無仮説ではない = 対立仮説 という立場を否定している。
対立仮説はいっぱいあっていいと考える。


なんどもNatureっていう言葉がでてくるけど、たぶん違うな。
彼の考えているのは自然ではないな。
もっと、よのなかの仕組みみたいなものだきっと。
偶然の性質、とかね。

2015年12月2日水曜日

3つの学派の具体的な違いはなにか

いちばん単純なのはフィッシャーのやつ。

帰無仮説をつくる。
その仮説のもとで、統計量をえらんで、P値を計算する。
p値があり得ないくらい小さければ、帰無仮説を棄却する。

そのP値はエビデンスとして扱う。
対立仮説のことを必ずしも意識してないけど、
帰無仮説でない、ってのは対立仮説になるだろう。


ネイマンの(frequentist)が次にかんたん。
帰無仮説と、それとは互いに素である対立仮説を用意する。
P値をもとめる。
P値が、あらかじめ設定してあった(許容されうる慌て者の間違いに相当する)
閾値よりも小さくなれば、帰無仮説を棄却する。

エビデンスはP値ではなくて閾値になる。
正直、対立仮説と帰無仮説の関係がそれでいいのかよとは思う。
帰無仮説でない、が対立仮説でなければまずいんじゃねえの?


ベイズがいちばん面倒だけど、いちばん普通の考え方かもしれない。
帰無仮説と対立仮説を用意する。
それぞれの尤度を計算する。
それぞれの尤度で比をとって、とても離れていれば(比が大きく・小さくなれば)
対立仮説を支持する。
エビデンスとしては、事後確率としての帰無仮説の成立の確率を(尤度比から)計算する。


フィッシャーのは用途がちょっと特殊である。
基本的に帰無仮説は偽である。
ただ、実験データとして、それが示されているかどうかはわかんない。
測定のばらつきは、データの大きさとくらべてちいさいかどうか、
がわかんないからだ。
そこを見積もるための客観的な尺度として使う。

ネイマンのも同様に特殊だ。
あるひとつのことを繰り返し繰り返しテストしたときに、
慌て者の間違いが予想よりも大きくならないように気を使っている。
そんなに繰り返しテストすることって、工場でもなければ、ないだろうな。


データが毎日更新されていて、
どんどん増えていくなかで、今日やったこれの結果をみて、
明日どう行動するといちばん有利かを考える。
天気予報みたいな?
これは私達の日常でよくおきる。
帰無仮説は間違ってるかも、正しいかも、わかんないながら。
そういうのをすっきりと解決するにあたって、
ベイズはよい道具だろう。
より一般的だし。
そして、データ増えれば、帰無仮説も対立仮説も進化するので、
事前確率の推定も正確になるしね。
進化するのだねこれは。

2015年12月1日火曜日

統計学者たちのP値の解釈について

有名なことらしい。
Soberさんも描いてるけど、いくつかの学派にわかれて悪口ばっかり言い合っていて、
学会もジャーナルも別に立てるようになっている。

これを(自らも統計学者である)Bergerさんは3つのグループにみたてて、
それぞれ頻度主義者(ネイマン)、ベイズ主義者(ジェフリーズ)とフィッシャリアン(フィッシャー)に分けた。

めんどくさいのは、それぞれの人々がいろんなことにかかわっていて、
それぞれの人々の思想はそんなに単純でなくて、
それぞれにからみ合っていそうだということ。

扱う問題も多岐にわたってるし。

ここでは単純な検定についてに限っておきます。

かれらはたとえばt検定の方法については一致している。
そして、たとえば2σずつのプラマイのなかに95%くらいが入るってことでも一致している。

何が違うっていうとそのP値の説明、物理的な説明について。


なんでこうも違っているのか。

私はこう想像しています。
彼らは、扱ってたデータが違ってた。

ネイマンたちのは、産業界からの要請があってやってた。
たとえば毎日ネジをつくっていて、それから抜き取りチェックをして、
サイズが変わってきたかどうか(製品を出荷していいかどうか
機械を更新せねばならないかどうか)が知りたかった。
ネジには誤差がある。
サンプルの過程で、ちょっと偏ったものを拾うことがありえる。
しかしロットを破棄すればお金がかかる。
だから、ある確率以下に、そうした事故を保っておきたい。

フィッシャーは実験結果に信頼をおいていいかどうか、
観測された違いが確かなのかをチェックしたかった。
もちろん肥料のやりかたを変えれば収量は変わってしかるべき。
しかし実験には誤差がつきもの。
はたして再現が得られているか、ただの誤差の範囲なのかを客観的にみる必要がある。

ジェフリーズは(彼のはよく知らないながらですが)、
データが日々追加されてくるなかで、明日どう行動すればいいのかを知りたかった。
もっとも有利なのはどんな解釈だ?

というわけで、データの使いみちが違う。データも違う。だから解釈が違う。
ってことじゃないかと。

これは数学でいったら、哲学とか、公理に近い考え方のちがい。
公理は認めることになってるから、そこで違いがでたときにどう議論したらいいのか、
数学者は慣れてない。

でつい、ローブローをふくむ、すごくみっともないケンカになっちゃってるんじゃないかな。

Soberさんまとめ

An Introduction to Mathematical Taxonomy
(Cambridge studies in mathematical biology)
by G. Dunn (Author), B. S. Everitt (Author)

DATE PUBLISHED: May 1982
ISBN: 9780521283885


タクソノミーを数学的にやろうということでいくつかの本をよんでたなかに、こういう入門書があった。
ここで、この分野の哲学がまちまちだということを紹介するために、
ファイヤアーベントのanything goesがでてきた。

この科学哲学者がどういう文脈でこれを言ったのかが気になって、
しばらくファイヤアーベントを読んでみたが、
結局このひとはダダイズムとか、
どうかすると反知性主義みたいな立場でこう揶揄しているのだとわかった
(そして必ずしも分類とか進化とか生物学を念頭にしておらず、
もっと科学一般をそう表現しているのだと)。

ところで、ファイヤアーベントさんのはなんだか不必要に文体が難解で、
ちょっといらいらする、日本語訳されててもわかりにくいし、原文でもわかりにくい。
科学哲学なのに、読者として科学者を前提にしてないような気がする。
あんまり論理飛躍をされると、投げ捨てたくなるんだけどなあ。


ポパーからしばらくの科学哲学はとにかく大風呂敷を広げてしまって、
社会科学も自然科学も同じ土俵で扱いたがる。
実際にはいろんな分野が異なる前提で動いているのになあ、
とおもってたところで、たまたま、三中先生の系統樹思考の世界を手にした。

さすがだとおもったのは、こうしたダダ的なところを歯牙にもかけないで、
そして大風呂敷をやめた科学哲学者がいること、
帰納と演繹だけじゃない考え方が認められてきていること、が書いてあって、
ああこの本をそのまま引用したいなあとか思った。
よくある科学の定義として5つくらい条件を出してるやつとか、
案外と、引用しやすい資料ってないしなあ。
あれオリジナルなんだろうなあ(?)。

まあしかしオススメのSober先生のを何冊か読んでみている。
たいへんわかりやすいので驚く。数学的なセンスがある書き手なんだな。

なんだけど、さはさりながら、だからこそかな、ひっかかるところが明確になる。
自分に関連するところだからそのひっかかりが気になる。
2点ある、どっちも統計のテストのあたり。

Soberさん統計学者を3つに分類している(科学と証拠、名古屋大学出版会)。
frequentist、ベイジアン、そして尤度主義者。

私はこの最後のやつに出会ったことがなかったので、ちょっと驚く。
Soberさんは(何度かつかってる)グレムリンのレトリックで、
屋根裏がさわがしいという観察結果から、
それはグレムリンのせいだという結論を導くときに、
このグレムリン仮説は尤度が大きい、
ほとんど1になる(いたらうるさいだろうから)ことを解きながら、
しかし尤度がより大きい仮説を選択するのが尤度主義だと説明する。
もし実在するのなら、バカじゃないかそいつら? と思う。
そう思うのはあなたがベイズ的な考えをしたからだとも説明する。


さて統計学者の分類に関しては、たとえば統計学者のJames 0.Bergerは、
Could Fisher, Jeffreys and Neyman Have Agreed on Testing?
Srarrsrrcal Science Vol 18. No. 1. 1-31 2003のなかで、

frequentist、ベイジアン、そしてフィッシャーら、という捉え方をしている。
かれらは同じ手法をつかうけど、データの解釈の哲学が違う。

Bergerの分類のほうが、より現場としてはわかりやすい。


もうひとつのひっかかりは、フィッシャーのテストがダメだということをいうために、
確率的なモーダスポネンスがダメだからと言ってること。
なんでダメかというと、
テストを繰り返していけば、どんなに前提の確率を高く設定しても、
掛け算すればゼロみたいに小さくなるから、
そもそもモーダスポネンスが成立しないからだと説明している。

これ、たぶん統計では「検定の多重性」として知られている概念で、
まあたとえば古くはボンフェローニが研究したあたりでは。
テストを無限回にくりかえして、そのなかで間違いを許容しなければ、
テストそのものが成立しなくなるのは現場では常識。
だからSoberさん、ここではなんか変なことを言ってると思う。

いちおうこれには引用もあって、そのひとつの本が手元にあったのでちょっと見てみたら、
そのひと(Royal)もフィッシャーを攻撃してfrequentistを擁護するにあたって、
しかしなぜか尤度主義を用いている
(そして多重性については触れていない、
Soberは引用した文献とは異なるレトリックを使っていたことになる)。
まあこれら三者がお互いを攻撃するのはぜんぜんふつうのことなので、特に驚きはしない。

確率的なモーダスポネンスについては、数学者が説明をしている。
Wagner CG が Brit. J. Phil Sci 55 (2004) 747-753で、
どんな性質があるのかを、ある条件と帰無仮説の確率について定量的に示している。
ごく短いけど、とても明確に。

結局あの統計学者の3つのスクールというのは、
帰無仮説がもともともっている確率がかなり異なる3つのケースを念頭にしているから、
確率的なモーダスポネンスの意味合いが違っていて、議論がかみ合わない
(ポパーの言うフレームワークなり、クーンの言うパラダイムなりが違う)んではと
私はおもう。

というわけで、たぶんこの部分にかんしてはSoberさん言ってることがおかしい。
それが進化や分類を考える上でなんらかの支障になるかどうかは私にはわからない。
私は自分の分野ではFisherの考えをとることが多いから、
Soberさんは引用しないだけだ。
もし将来においてこれが障壁となるのなら、
そのときにまあコメントでも書くのだろうけど。。。

ご本人に確認してみようかしら。お節介かしら。

餅屋

統計学者のくくり方についてはやっぱ統計学者のほうがしっくりくる。

https://stat.duke.edu/~berger/papers/02-01.pdf

Could Fisher, Jeffreys and Neyman Have Agreed on Testing?

いまんとこ、これがいちばん納得。


さて
>あと、これがフィッシャーの仮説検定の基盤だって理屈もわからない。
>それほんとなの?

これはほんとだった。

p(O|H)が高く、
Oでないなら、
すなわちHは棄却されるべきである。

帰無仮説Hのもとで、t値がプラマイ2σのあいだに入るのをOとすると、
その確率は95%くらいで、まあ高いだろう。
実験の結果t値がそこに入らなかった(Oでなかった)とすると、
Hを棄却しよう。

ってのが、統計的な検定の考え方だ。

なるほど。でもこれ、あんまし自明じゃないよ。
説明してくれればいっぱつでわかったんだけど、たぶん?
ってか、なんでわかんなかったかなきのう。

なんか模様とか「みなし」ができるようになると、
以後そのパターンでみるのが定着してしまうっていう、あの現象?

Soberがみた確率論的モーダル・トレンス

というわけでいまSoberを何冊か横において読んでいるわけですが。

あれれ? ってとこがやっぱでてくる。

モーダル・トレンスって話法に確率論を組み込んだ時、それはダメになるって話なんだけど、
これ本当かなあ。

p(O|H)が高く、
Oでないなら、
すなわちHは棄却されるべきである。

そうなりそうだよね。素朴に考えると。

なんでそうならないかっていう説明を、
どんなにHがひとつの観測に高い確率を与えるとしても、
何回もくりかえすと

p(O1O2O3...O999|H)はかならず低くなるはずだから、
そもそもこれが成立しなくなるからだ。

って説明してる。
なんだそりゃ。
なんかへんな逃げを打ってるように思う。


何回も繰り返して、それを掛け算して確率を求めているってことは、
それらOがすべて成立するってことを求めているってこと。

だれもそんなの望んでないんじゃないか?
ってかそもそもの「p(O|H)が高く」が与えられてないからダメじゃね?
あと尤度主義ってまとめかたも、それ、どのくらい人々は納得してるかなあ。

ありがたいことにわかりやすく書いてあるから、疑問がストレートにでてくる。
どんなにHがひとつの観測に高い確率を与えるとしても、
何回もくりかえすと

p(O1O2O3...O999|H)はかならず低くなるはずだから、
そもそもこれが成立しなくなるからだ。


にかんして。この確率論的モーダル・トレンスが成立しないことについて
SoberはRoyalの本と、あと2つの本を引用もしていた。

たまたま、Royalの本は持ってたのだった(読めよな)。
見てもしかし、確率論的モーダル・トレンスについてはなんもかいてない。
Fisherのはダメってことは言ってる。なぜか。それは最尤の定理に反するからだ。

でもその定理ってかなり怪しいぞ。定理っていってるけど、
実際には決意表明みたいなもんで、そしてかなり怪しいものだ。

ってわけでなんとなくSoberの立場もわかったような。

このひとも、立場で考える人なんだわ。
ちょっとがっかり。

まあ、使えるところだけ使わしてもらおうかなっていえば、
それはチェリーピッキングになっちゃうなあ。


まあいちおう書いておくと、
p(O1O2O3...O999|H)はかならず低くなるはずってのは、
統計学では多重性検定問題っていうところで扱う。

無限回に繰り返されるテストのなかで一回でも過ちを犯す確率を、
たとえば5%に抑えることはできない。

当たり前のこと。

テストを無限回に繰り返すってことがそもそも、へんな前提なのだ。

モーダル・トレンスが正しいのは論理的にも集合で考えても明らか。
そこに確率を持ち込むのはそんなにおかしいこととは思えない。

系統樹思想の世界

系統樹思想の世界って新書だしてたなあって、図書館で見つけたので借りてみた。
なるほどね、進化の人たちはこう考えるのね。

大風呂敷科学哲学はおおむねばっさり切っていて、
relativismには走らないのがさすが。

そうか、Soberってひとが質的にかなり違うアプローチをしているのね。

でそれらも借りて読んでみた、まあいまいま進化は関係ないんだけど、
じきに必用になるから、いい機会ではあった。

このひとはベイズ使いなんだな。
ただ考えて議論するだけなんじゃなくて、
数式つかうとこんなに明快になるんだよって見本みたいだ。

要は、ポパーのいう反証主義をそのまま使おうとすると、
進化の問題はなかなか解けないってことなんだよね。
そりゃそうだろう。
あれ、再現できないからなあ。


いいなSiber。なにより、文体が明晰でわかりやすい。
三中さんの訳もいいんだろうな。
英文が透けて見えないし、好ましいな。


wiki日本語の、科学的方法って記事が、読ませる。笑える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%B9%E6%B3%95
すごい独自路線で、もうこれは論文っていっていいんじゃないか、
署名がほしいところって状態になってる。


これだれが書いたのかな?
ファインマンのエッセイまで引用してる、これ適切とは思いがたい引用だけど、
内圧たかそうで、これはこれでアリかな。。。。


ファインマンに関しては、もうちょっとちゃんと語ったものとしては、
困ります、ファインマンさん
What Do You Care What Other People Think?

に収録された
1955 autumn meeting of the National Academy of Sciences での
The Value of Science

I would now like to turn to a third value that science has. It is a little less direct, but not much. The scientist has a lot of experience with ignorance and doubt and uncertainty, and this experience is of very great importance, I think. When a scientist doesn't know the answer to a problem, he is ignorant. When he has a hunch as to what the result is, he is uncertain. And when he is pretty darn sure of what the result is going to be, he is still in some doubt. We have found it of paramount importance that in order to progress we must recognize our ignorance and leave room for doubt. Scientific knowledge is a body of statements of varying degrees of certainty — some most unsure, some nearly sure, but none absolutely certain.

Now, we scientists are used to this, and we take it for granted that it is perfectly consistent to be unsure, that it is possible to live and not know. But I don't know whether everyone realizes this is true. Our freedom to doubt was born out of a struggle against authority in the early days of science. It was a very deep and strong struggle: permit us to question — to doubt — to not be sure. I think that it is important that we do not forget this struggle and thus perhaps lose what we have gained. Herein lies a responsibility to society.

Feynman, Richard P., What Do You Care What Other People Think?, 1988, W W Norton, ISBN 0-393-02659-0 

ってあたりだろうな。これがベストの引用かどうかわかんないけど。

どう扱ったものか

relativism about scienceについて説明するとき、
ラカトシュで引用せねばならないものはなさそう。
彼はその線の人ではないんだろう。

これがでてきたきっかけになったのはクーンであろう。
そこが口実として利用されたのだろう、彼はそこまで言おうとはおもってなかっただろうから。

つけこんだのがファイヤアーベントで、
まあラカトシュはそこにツッコミいれるつもりだったのかもしれないけど死んじゃった。

ファイヤアーベントの問題は、まあこれはこの時代の科学哲学に共通する問題だけど、
チェリーピッキングが著しいこと。
科学ってフィールドをものすごく広くとらえて、
そのなかから好き勝手に題材をピックしてくる。

そしてものすごく自由な外挿をする。

すると、何でもアリになる、まさにファイヤアーベントが言ったように。

ただ、こんなことされると、現場の科学者はこまるのよ。
知見に客観性がなくなると、知見の合算ができないから。

ってことをどこまで論文で説明したもんかな。

たとえばファイヤアーベントの言ってたことは、科学者や科学の進展のためじゃなくて、
ふつうの人に向けて書いていたらしい。

against method
の初版では、それがむしろダダイズムに沿っていたような注釈があり、
後の版ではこれは削られて、どちらかというと(その言葉を使ってないんだけどたぶん)
反知性主義の立場のようなことが書かれた章が加えられている。
なんてことはトリビアルすぎるかな。彼、そんなに重要じゃないよね。

文系の人はだれが何を言ったかに異常にこだわるけど、
科学者にしてみればそれはまあ些細なことで、
何がより正しい考え方なのか、がはるかに重要。

ところで、フレームワークを乗り越えることを勧めたポパーが、
自分のなにかをちょっとでも批判されるとものすごく反応したり、

大衆のために哲学をやるんだとか言ってたファイヤアーベントの文章がめちゃめちゃ読みにくかったりするのは、
―― これ、難しいこと言ってるから難解なんじゃないよ?
わかりやすくする、紛れないようにする努力を怠っているからだよ?

ほんと馬○みたいだと思う。
まあポパーのは可愛げがあるんだけどね、
笑っちゃうような文章がちょくちょく出てくるし。。。。
たくまざるユーモアなのかなあ? 講演のあとで、冗談にとられたって
怒ってることがあるみたいなんだけど、
天然の人だったのかもしれない?

ラカトシュもまた真面目

ファイヤアーベントと仲が良かったらしい、ふたりでmethodsを書こうとしてたらしい。

これをボケとツッコミという組み合わせで漫画化すると面白いかも、とおもったけど、
どっちもツッコミでボケがいないんじゃないかとかもおもう。
しいていえばファイヤアーベントがボケなのかなあ。
そう考えるともっとわかりやすいのかなあ。

つっこんでほしそうなところ、多いもんな。

ラカトシュは真面目というか、二代目ってかんじのひと。
もちろん先代はポパー。
たぶん真面目に跡目を継ごうとおもってたんではないかしら。
かれをコピーすることをまず、って思ってなかったか。
これからってときに死んじゃった。
でも、写真みると、ものすごくじいさん。
40くらいでじいさん。
そういう血なのかもしれん。

方法の擁護のなかでラカトシュはパラダイムの終焉について、
ポパーと同じ例を出して説明している。
惑星の軌道の測定がちょっと理論値と異なっていたときに、
ニュートン力学を疑わずに、
もうひとつの惑星があることを予言したってあれ。

かならずしも科学者はそこで自分のパラダイムを疑わない、
それは非難されるべきことでもないってあたりのこと。

これ、なかの人からしたらあたりまえなんだけど。
修正のほうが簡単だもの。
アドホックであるとかいわれようとも。

新しいのを最初っからつくれるひとって、そんなにいない。
普通の科学者はそんなに優秀でもないし万能でもない。

やってみればわかることなんだけどな。

彼の、しかし、バックグラウンドは数学にありそうだな。
数学とにたシステムで科学をとらえようとしてなかったかな。
かれのいうハードコアって公理のことじゃなかろうか。

ただ、公理は最初に宣言するもの。
あとから変質したりしないんだよね。

relativismが科学にとって邪魔な理由

この考えにたつと、とくにファイヤアーベントの「なんでもあり」は、
知見が寄せ集められないのだ。

科学は、多くの研究者が持ち寄った小さな知見を統合することで成立している。
大きすぎて扱いきれないものを分割して、その総和を見ようという試み。

そこは「問題を分割しうる」「細部の総和は全体と等しい」
というデジタルなものの見方が前提にある。
いわゆる還元主義である。

だから、「この現象は、この見方をしたときには、これを意味する」というタイプの知見は、
この目的にはそぐわないのだ。
見方をブラすな。
勝手に見方をつくるな。
欲しいのは絶対的な知見なのだ。

この要求は、たしかに教条主義的に聞こえるかもしれない。
人間の営みとしていかがなものか? 息がつまるよ。
ファイヤアーベントの主張の眼目はそこにある。

しかしまあ科学ってそういうものなのよ。
いやなら他にいきなさい。
好きに虫でも捕まえていなよ。

relativismは、あらゆる見方を、等価なものとして扱ってしまう(危険性がある)。
そんなわけないじゃん。
科学者は、いかに客観性を維持するかについて、心を砕いているのだ。
きみら一見さんがきて好き勝手していいわけじゃないんだよ。

だけどこういうクズい考えと、
難解な文体って、文系のインテリゲンチャんに受けるんだろうなあ。

なんて考えると、ああ反知性主義ってこうなのかなとか思ったりね(笑)。
売れすぎちゃったからなあファイヤアーベント。
ダダから攻撃されるようになれば、ダダも一人前だ、とか言ってね(笑)。

断片的なファイヤアーベントに関してのことなど

科学にかんしてのrelativismで必ず出てくるのはファイヤアーベントとクーンだけど、まあ立場がかなり違う。

クーンは本業が忙しかったのか、あんましたくさん本を出してない印象。
いつもあの科学革命の構造が引用されるんだけど、

かれはいたって真面目なのだ。たぶん。

科学がどんなふうに発達してきたかを観察ないし考察して、
そこからあのパラダイムってものを見つけた。

クーンのそれはポパーからだいぶん攻撃されたみたいだけど、
ポパーのいってるフレームワークと何が違うのさって、
まあ私なんかは思う。本質的にはそう違わないでしょ。

あるいはクーンは、私のそれはあんたのあれと同じですよって言えばよかったのかな?

もっともパラダイムは概念が拡散しまくっちゃったから、本人も嫌だったみたいだけど。


ファイヤアーベント(めんどくせえ名前だ)はもっと不良で、
こいつ方法への挑戦の第一版ではかなりふざけていて、
それが「アナーキズムよりもむしろダダイズムから来ている」ことをほのめかしている。

あんまし売れちゃったし、批判も浴びたし、
アメリカでは「ポリティカリー・コレクト」であることをいつも求められるし
(案外と窮屈なコミュニティかもね)
ってんで、ペーパーバックの第三版になるころにはそんなの削っちゃって、
なんか知らん顔してるけど。

でもポパーを否定するにあたってアナーキズムを出してくるあたりかなりの不良だ(笑)。
かつての師匠なのにね。たぶん不肖の弟子だっただろうとは思う。

さてクーンもそこから退いたっていう(ただ書いたものは残るからね)
アバンギャルドなrelativismの大きな問題は、
やっぱファイヤアーベントの言ってた「なんでもあり」にあるとおもう。

・確実に確かだということはできない

まあそれはそのとおりだとしても

・だからなんでもありなんだ

とはならないだろう。

かれは人々が呼吸をするスペースを与えたのだっていうんだけど、
そんな人々は科学まわりで呼吸しなくてもいいよ。
消えてくれ、邪魔だから。
ってか、こいつたぶんゾンビだろう、もう。

書いたものって、残るからなあ。

ダダイズムって、ちょっと間違うと、反知性主義になっちゃうよね。

Theory and Observation in Science

http://plato.stanford.edu/entries/science-theory-observation/#ObsExcPerPro

Stanford Encyclopedia of Philosophy

の記事。科学哲学のなかのひとが2013年に書いてる、わりと新し目だし、
引用もできるので便利かもしれない。

けどやっぱ哲学者は哲学者だなあ、文系のひとだなああ。。。。

クーンやファイヤアーベントは観測結果がtheory ladenであることを主張していると。
そりゃそうだろう。
でもだからって客観的であろうとする努力を放棄していいことにはならない。

ダムに穴があるからって、ダムを壊していいわけじゃない。
少なくともクーンは科学者だったから、このへんもっと慎重なんだけど、
あとからきたファイヤアーベントとかに利用されたのかもしれない。

科学哲学者たちはなんのためにあんなことやってたんだろう?
もう流行らないみたいだけど(でも日本にだってまだ残党はいるわけで)。


ところでかれらの文章ってすごく読みにくい。
読み手にたいしての配慮がないかんじ。
で、ファイヤアーベントとかは好きに読んでくれっていうんだけど、
そういうの科学者としては邪魔でしかないです。
かれらの存在意義ってなんだったんだろう?
科学の発展のためにこれっぽっちも寄与してないんじゃないかとさえ思う。


これ日本の文系の人たちに感じる、おまえら邪魔だぜっていうのと、
ちょっと似ている。
どこか静かなところで遊んでてよ、忙しい人を邪魔するなよ。

theory-ladenness of observation

theory-ladenness of observation
観察の理論負荷性◆通例、theを伴う。ハンソン(N. R. Hanson)が提唱した概念。観察者の視点と意味づけによって、対象となる事物の見え方が異なる、という考え方。 https://en.wikipedia.org/wiki/Theory-ladenness

In the philosophy of science, observations are said to be "theory‐laden" when they are affected by the theoretical presuppositions held by the investigator. The thesis of theory‐ladenness is most strongly associated with the late 1950s and early 1960s work of Norwood Russell Hanson, Thomas Kuhn, and Paul Feyerabend, and was probably first put forth (at least implicitly) by Pierre Duhem about 50 years earlier [1]

Forms[edit] Two forms of theory‐ladenness should be kept separate: (a) The semantic form: the meaning of observational terms is partially determined by theoretical presuppositions; (b) The perceptual form: the theories held by the investigator, at a very basic cognitive level, impinge on the perceptions of the investigator. The former may be referred to as semantic and the latter as perceptual theory‐ladenness.

In a book showing the theory-ladenness of psychiatric evidences, Massimiliano Aragona (Il mito dei fatti, 2009) distinguished three forms of theory-ladenness. The "weak form" was already affirmed by Popper (it is weak because he maintains the idea of a theoretical progress directed to the truth of scientific theories). The "strong" form was sustained by Kuhn and Feyerabend, with their notion of incommensurability.

However, Kuhn was a moderate relativist and maintained the Kantian view that although reality is not directly knowable, it manifests itself "resisting" to our interpretations. On the contrary, Feyerabend completely reversed the relationship between observations and theories, introducing an "extra-strong" form of theory-ladenness in which "anything goes".[citation needed]

このanything goes ってあるあるだなあ。
仮面ライダーオーズ(笑)


デュエム-クワイン・テーゼ

https://en.wikipedia.org/wiki/Duhem%E2%80%93Quine_thesis

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%A0-%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC